島崎藤村の一般的なエピソードとは一味違う人生から生い立ちなどを
紹介しております。
通常ではあまり知ることの少ない情報を知りながら、島崎藤村の人柄を見てみましょう
画像出典:wikipedia
日本自然主義の重鎮・島崎藤村または本名島崎春樹は1872年(明治5年)、岐阜県にある江戸時代には木曾馬篭の本陣を兼ねていた問屋の末っ子として産まれ、少年時代からは東京で育ちました。
初めは『文学界』という自身も創刊に関わった雑誌で同人として劇詩や評論を発表していました。それと同じころ、藤村は明治女学校高等科英語科教師となりました。彼はキリストの洗礼を受けていたのですが教師としての自責のためキリスト教を棄教し、辞職しました。その後女学校に復職しましたが交流を結んでいた詩人・北村透谷がお亡くなりになることや実兄・秀雄が不正疑惑や、翌年には佐藤輔子が病気でお亡くなりになるなどあり、同年女学校を辞職しています。
1896年、藤村は第一詩集『若菜』を発表し浪漫的叙情詩人として文壇に登場し、後に4つの詩集を編んだあと、詩作から離れていきました。散文の方向に転じた藤村の最初の試みは彼が長野県の教師時代に描き続けられていた『千曲川のスケッチ』という名で発表された一連の写生文及び「千曲河畔の物語」と総称されている短編集で、後に明治40年発表の『緑葉集』にまとめられました。この作品で藤村は詩への決別を図ると同時に代表作・『破戒』の執筆を始めました。その6年後の明治38年、書き上げられた『破戒』を藤村は自費出版しましたがすぐに売り切れてしまい、文壇からは本格的な自然主義小説だと絶賛されました。
しかしこの頃、栄養失調により3人の娘が相次いで亡くなるという不幸にも遭っています。大正時代に入ってからの藤村の作品には姪・こま子との関係を告白し話題をよんだ『新生』、4人の子供をもつ父親としての心境を綴った『嵐』などがあります。昭和に入ってからは、小学校卒業の同年にお亡くなりになった父・正樹をモデルに据え、藤村の生まれた木曾馬篭の本陣の家という位置から幕末維新の成立と動乱期を目新しい視線で描いた代表作の『夜明け前』が書かれています。
藤村の作品の特徴は実際にあった出来事を持って生まれた文才で見事に書き切っている点です。『破戒』は被差別部落出身の青年教師・瀬川丑松が「身の素性を隠せ」という父親からの戒めと自らの出身を堂々と明かし差別と戦っている猪子蓮太郎との間で板挟みになり揺れ動きながら、同僚と教え子に自身の生い立ちの秘密を打ち明けるまでの過程を書いた作品です。
出身地に関するデリケートで踏み込みづらい問題を核として、そのことで悩み苦しんでいる青年と、反対に周りからの反対にも屈せずに堂々と戦い抜く青年の姿が描かれていますが、自己告白への恐れという部分には主人公は勿論、家庭問題という藤村を取り巻いていた環境と酷似していると思われます。また、主人公は猪子のお亡くなりという悲惨な現実から追い詰められ素性を打ち明け、テキサスへと渡るというなんともどっちつかずというか、逃げるような行動をしています。この部分でも後にこま子との関係を断とうとフランスへ逃げた藤村に似ていますよね。やはり藤村は主人公に自己投影していると強く思われます。
藤村ゆかりの地。 名作「初恋」に登場するモデルのゆふさんの嫁ぎ先だそうです。
妻籠 脇本陣奥谷
島崎藤村の『初恋』のモデルとされてるゆふさんの嫁ぎ先。
(4枚目は島崎藤村直筆の手紙)
明治13年の京都巡幸のときに明治天皇がくる!ってことでこたつ風の机(2、3枚目)を作ったり、お風呂作ったりしたみたいです。
ガイドさんの話がおもしろくてとても勉強になりました。 pic.twitter.com/XrNXRUerSx
— とうふ🥢 (@_soft102) August 12, 2019
藤村の性格は何にも突き詰めなければ満足できない取材気質があったようです。また、谷崎潤一郎も東京での作家で藤村を嫌っている人間は少なくないとし、坂口安吾も不誠実な人間だと酷評しています。藤村は癖が悪い上に借金苦もあり、『破戒』の自費出版をするときのお金もない場所からひねり出したようなものです。お金があるのなら美味しい物をたべさせてやるべきでしょう。
作品はほぼ全て藤村の自己投影や実際に起きたことを書いている問題作が多く、その分藤村の人間性も露骨に表れているので賛否が分かれるところです。しかし各作品の主題を見ていくと確かにこんなことしてた人には近づきたくないなーとかあまり好きじゃないなと思うかもしれないですね、芥川龍之介も『新生』に関して露骨に貶していたそうです。作家だからと言ってあること全部書きゃあいいってものでもないと言いたかったんでしょうか。
本当に好き嫌いが分かれる作品・文豪ですが、私は色々問題が起こってもそれを本を通して伝える行為には勇気が要り、それをした藤村のことは純粋に凄いと思います。肝心な内容は別としてですが。内容もデリケートな問題を軸に話題を呼び現代まで高い評価を受けていることから、やはり高い技術を持つ人のみが書けるような作品を、藤村はこの世に遺したんじゃないかとおもいます。
藤村のお墓です。
島崎藤村の墓がありますよって言っちゃいけないレベル pic.twitter.com/xjueHtE9Wz
— ふりさん (@Mt_furi) September 14, 2013
また、藤村の好物は鶏肉と川魚だそうです。こう見ると比較的安価で淡白な味の物が好きだったんでしょうか。また、彼は原稿がすすまないときに豪華な食事を食べる資格がないから粗末にしてくれと頼んでおきながら質素な料理を出されると自分が藤村であることを忘れるなと言ったそうです。自分で粗末が良いと言いながらいざ出したらこの反応、いい加減にしろよって感じですね。
当時は男性には歯向かえないので言えませんが、奥さんも自分で作れよと何度も思ったことでしょう。肉が良かったら自分で買ってこい、という感じですよね。しかし何というか、実生活においても色々な意味で面倒臭い性格が漂っていますね。人に対して質問極めるところとかそっくりですね。やはり筆質も当人の性格が滲み出てしまうものなんでしょうか。
関連記事の紹介