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江戸川乱歩という作家のあなたが知らない世界

2020-07-08

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江戸川乱歩をご存知でしょうか? 推理小説で有名な作家でもあるのですがその人間像は興味深いものがあります。

 

それでは江戸川乱歩の人間像を理解していただくために一般ではあまり知ることのできないエピソードを紹介します。

 

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画像出典:wikipedia

 

 

大正から明治にかけて推理小説を書き続けた作家・江戸川乱歩、本名平井太郎は1984年(明治27年)に現在の三重県名張市に産まれました。

 

彼の祖父の代まで津藩の藤堂家に武士として仕え、藩士として勤め抜きました。彼が小学生の頃母に読み聞かされた菊池幽芳訳『秘中の秘』が、初めて探偵小説に触れた体験でした。今の愛知県立瑞陵高等学校を卒業後、早稲田大学政治経済学部に入学し、卒業後は貿易会社の社員や古本屋などの多種多様な仕事を経験しました。

 

乱歩の作家デビューは1923年(大正12年)、雑誌『新青年』に載った「二銭銅貨」でした。以降、初期の乱歩の作品はコナン・ドイルやエドガー・アラン・ポーといった欧米の探偵小説の影響を受け継いだような本格的探偵小説を次々と世に出し、日本の探偵小説界のトップの一角に君臨しました。これらを活かした所謂通俗探偵小説は昭和初期から一般の大衆に歓迎され、それもあり乱歩の作品は「大衆小説」とも呼ばれています。また、乱歩は一般向けだけでなく、少年向けにも探偵・明智小五郎と助手の小林少年が活躍する「怪人二十面相」シリーズや、「幻影城」に代表される探偵小説に関する評論も残しています。

 

江戸川乱歩像

 

戦後の乱歩は評論家・プロデューサーとして活躍する一方で探偵雑誌「宝石」の編集・経営に携わりました。加えて日本探偵作家クラブの創立と財団法人化に尽力したりと、後世に残るような探偵小説作家の育成にも力を注ぎました。

 

彼の創作活動初期には「心理試験」や「D坂の殺人事件」に代表される本格的な短編を幾つも発表し、日本人としての創作による探偵小説の基を築きました。また、江戸川乱歩というペンネームはアメリカの推理作家・エドガー・アラン・ポーの名をもじったものであり、彼の小説はポーの作品から着想を得て発表しているものも多数あります。

 

乱歩は探偵小説の本格派を目指していましたが、しかしこれらの作品は一般大衆からあまり評価されませんでした。それが「鏡地獄」「人間椅子」「芋虫」「蜘蛛男」といった作品です。ですが私が思うに「D坂の殺人」と同年に発表された「屋根裏の散歩者」でも、この乱歩独特のフェチズムは既にあったのではないかと思うのです。おおまかにいうと平凡な日常にスリルを求め女装を繰り返していたが飽きてきた主人公が深夜に寝泊まりしていた下宿屋の屋根裏部屋を歩いて最後は明智小五郎に逮捕されるという有名なお話です。

 

個人的に乱歩の作品の代表格はこれと「人間椅子」と「芋虫」と思います。「人間椅子」は知っての通り椅子職人が自分のつくった椅子に入って誰が座るか想像し座った後の感触を楽しむ話です。誰か座ってるときに催したらどうするんでしょう、ひたすら我慢して誰もいなくなってからトイレに駆け込むんでしょうか。それはそれで至極間抜けですが、椅子に入ってる前提だとやっぱり気色悪いのは変わらないですね。

 

旧江戸川乱歩邸です。 ここで終生を乱歩が過ごしたと思うと感慨深いものがありますね。

 

もう一方の「芋虫」は表現が反戦的な所為で検閲を恐れて伏字だらけになった挙句全編削除の後に理解がしにくくなったりしたある種の短編作品です。そんな癖の強い作品を多数世に出した乱歩ですが、本人は意外にも今で言うコミュニケーション能力が低い人間嫌いの引きこもりでした。その為、常に家の中に籠っており、書斎には窓ひとつなく昼間でも明かりをつけなかったという筋金入りの人嫌いでした。執筆する時にひとり静かに書き上げたいという気持ちは分かりますが窓ひとつもない場所に籠るのはちょっと行きすぎな気がします。というかそんな暗い中で作品がよく書けますよね、慣れでしょうか、慣れるって恐いですね。幼少時代から人嫌いの気があったそうで、学校という社会生活が嫌だったそうです。私も集団登下校とか苦手でしたから分かりますけどね、彼のように徹底的な人嫌いまではいきません。

 

きっと乱歩も人と合わせたり同じような考え方をしたり持つことが出来なかったんじゃないかなと思います。そんなある種のネガティブ思考は小説を書いているときでもよく現れていました。曰く拙いということに自信がある小説を書くより不自由をしても月給取りに転職すべきだがこれがまた私の性には合わない。とし、自分でつまらないと思っても編集者が色々言ってくるからじゃあ原稿稼ぎをしてやろうと考えた結果、結局は妥協に至り、元々生きると妥協することだ。という風にどんだけ自作に自信が無かったかが痛いくらいにわかる文を残しています。いや、出世作出しまくって結果天狗になって踏ん反りまくるよりは大方ましですがね、もうちょっと売れてることだし調子に乗ったりしてもお咎めは無いんじゃないですかね。

 

そんな自身の無さを具現化するようですが、乱歩は作家人生31年間のうち合わせて17年間も休筆していました。なんと休んでる方が書いてるときより長いのです、ある意味天晴ですね。因みに休筆中は日本各地を旅行していたようです。そんなことをしても食べていけていたのですから、作品はかなり売れていたのでしょう。羨ましい限りですね。

 

乱歩のお墓です。

 

ですが乱歩の人嫌いは戦時中から徐々に変わり、人好きへとなっていきます。戦時中、昼間誰も出来ないという理由で防空群長に任命され、後に町内会で町会副会長の地位に就くという出世を遂げます。その最中に近所の人と打ち解けた結果人嫌いが人好きに変わります。後半とか現世で言うところのリア充の域に達していますよね、でも町内会の人達が良い人たちだったようで何よりです。時と場合によれば更に人嫌いが増幅したかもしれませんもんね、良かった良かった。

 

乱歩は後に日本作家クラブに寄付した私財100万円を使って江戸川乱歩賞を制定、今でも推理作家の目標とする立派な賞となっています。歴代受賞者には西村京太郎や山村美紗といったドラマ化が定番の大人気作家もおり、この賞にどれだけの影響力があり、力を持った作家が集うかが分かります。きっとこの結果に乱歩本人も満足しているでしょう。

 

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  • この記事を書いた人

yasu718

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