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高村光太郎の人生とそこから分かる作家の裏側

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高村光太郎の作家として、一人の人間としてその人物像に迫るべく

有名なエピソードとは一味違う秘話を見てみたいと思いませんか?

 

智恵子抄に代表される有名な作家でもあります高村幸太郎。

そんな高村幸太郎の知られざる素顔に迫りたいと思います。

 

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画像出典:wikipedia

 

 

 

日本の詩人・彫刻家・歌人・画家という多彩な才能を発揮していた高村光太郎(本名はみつたろうと読む)は1883年(明治16年)の東京で産まれました。父は木彫りの名人として知られている高村光雲です。

 

光太郎は日本を代表する彫刻家・画家でしたが『道程』『智恵子抄』『典型』といった詩集が著名で教科書にも掲載される程です。今の東京芸術大学美術学部の彫刻家に入学後、彫刻だけでなく文学にも興味があり、同人誌『明星』に寄稿します。卒業後は彫刻科の研究に進むものの3年後には西洋画科に移りました。翌年より父から得た留学資金でニューヨークに1年2か月、ロンドンに1年1か月、最後にパリに1年滞在後、1909年に帰国しました。ニューヨークでの厳しい生活の中メトロポリタン美術館に展示されていた彫刻家・ガットソン・ボーグラムの作品に感動し、彼宛に熱心な手紙を書き助手にしてもらいました。

 

 

ニューヨーク・ロンドン・パリといった広い世界を観て帰国した光太郎は日本の美術界の在り方に不満を持ち父へも反抗し、大学の教師への誘いも断りました。またこの頃の光太郎は父の職人的木彫り気質とロダン的な芸術家精神の間で悩んだ結果、デカダンという反道徳的や退廃的な生活に陥りますが、後に結婚する智恵子と知り合ったことでそれを脱し、芸術で生きるようになりました。

 

同じ頃に浪漫的傾向の森鴎外を指導者に据えて石川啄木を発行人として刊行された『スバル』に美術批判を寄せ、北原白秋などの芸術家が集った「パンの会」にメンバーとして参加していました。その数年後、前半が耽美的傾向の詩を、公判が智恵子への思いを含めた人道的傾向の詩集『道程』を発行しました。

 

光太郎の作品の1つでもあります、乙女の像です。とても神秘的な感じで素敵です。

 

光太郎が長沼智恵子と生活を共にした14年後、酒造家で資産家だった智恵子の父が亡くなり、実家が破産・一家離散し、この頃から元々病弱だった彼女の健康状態が次第に悪くなり、後に病気を発病します。1935年に入院し、3年後に肺結核で亡くなりました。その3年後の1841年、智恵子と結婚する以前から亡くなられた後におよそ30年間に渡って書かれた、彼女に関わる詩が9篇、短歌6首、3篇の散文が収められています。

 

智恵子の亡くなられた後、そして戦時中は戦意高揚のために戦争に関する詩を多く書きますが、詩をつくった自責の念から疎開先の岩手県の山中で自己批判的回想詩を書きました。そして1956年にアトリエで奇しくも智恵子と同じ肺結核でこの世を去りました。

 

 

光太郎と智恵子との出会いは共通に知人がいたことからで、光太郎のアトリエに智恵子が訪れ、2人は初対面を果たしました。しかしその時は彼女に婚約者がいて、光太郎はそのことに同様、その時の心境を『人に』という作品にしたためています。あなた・智恵子がお嫁にいって余所の男の意のままになってしまうのが嫌だという悲痛な心情を綴った詩で、見ている側の方まで当時の切ない気持ちが伝わってきそうになります。この時から光太郎がどれ程智恵子のことを想っていたかが分かります。

 

加えて光太郎は彼女のお蔭で迷いを断ち切って芸術家として生きる決心をするわけですので、彼にとって智恵子はある種の救世主のような存在だったのでしょうか。その後智恵子は様々な不幸が重なったことが要因となってか、精神的な病を発病し光太郎も智恵子の家族の住む九十九里浜に移住したりと熱心に看病をしました。彼女の亡くなられた後、彼女を偲んで綴られた『智恵子抄』には「あどけない話」や「あなたはだんだんきれいになる」といった二人の何気ない日々の風景の中の会話や、飾り気がない方が彼女は綺麗になっていくといったふとした瞬間の景色が詩として書かれています。

 

光太郎さんのお墓です。

 

「あどけない話」では智恵子の故郷で今の安達太良山の上に出ている空こそ本当の空なのだという描写がありますが、もう一度その空を彼女が見ることは叶いませんでした。看病をしていた光太郎もきっと智恵子の見たかった空をみせてあげたかっただろうと思います。きっと彼女が少しでも生きながらえる、生への希望を照らしてあげることが光太郎の望みで、その為なら何でもする覚悟だったのではないかと私は思います。加えて彼女の亡くなられた後、この詩を選定する時の光太郎はどんな気分でこの詩を読み、作品として収めたのでしょうか。当時を懐かしむと同時に智恵子への愛しい想いがあふれ出ていたのでしょうか、それとも彼女がこの世の何処にもいないという現実を悲嘆し、彼女が生きていた証をこの世に遺そうと光太郎の筆を通した生前の智恵子を紙面にだけでも蘇らせようという心境のなかこの詩を収めたのでしょうか。どちらにせよ光太郎は生涯を通し、高村智恵子その人を愛し抜いたことは事実でしょう。

 

そして「あなたはだんだんきれいになる」は女性は付属品を棄てて行くと綺麗になるということを描いた詩です。生活を共にした当初の2人は貧しく、智恵子はセーターとズボンだけで暮らしていましたが、それがかえって彼女の美しさを引き出しているという内容です。なんでしょう、微笑ましいですが同時に凄惚気られた感じがします。うちの妻はズボンとセーターだけでも綺麗なんだよ!という風に光太郎に智恵子の魅力を力説させられているかのような詩に思われます。夫に綺麗だとふとした瞬間に思われるような妻、という関係といった夫婦仲の良い2人だったんだということが容易に想像できますね。

 

智恵子の死後は戦争詩を多く書く光太郎ですが、これにはやはり智恵子の存在が関わっていると思われます。最愛の人を亡くし、全てを投げやりたいやりきれない思いを抱えながら生きながら当時の時代背景を高揚の詩に表し一心不乱に智恵子のことをそれで少しの間でも忘れられるように詩を書いていたのではないでしょうか。

 

記念館にある光太郎そば! とても美味しそうです。

 

光太郎がニューヨークに留学している時、芸術学校のクラスメイトが頻繁に彼の作品に悪戯をして光太郎は腹を立てていました。悪戯の主犯格の男はレスリング経験がありましたが、実は光太郎も留学前にボディビルダーの先駆者・ユージン・サンドウが世に広めたサンドウ式体操で肉体を鍛えていました。

 

あるとき男と教室で光太郎は柔道、男はボクシングのスタイルで試合をすることになりましたが光太郎はサンドウ式体操で培った腕力で相手の男を締め上げ、試合以降作品に悪戯をする者はいなくなったという話があります。線の細い華奢な青年だとばかり思っていたので意外なエピソードですね。多分悪戯の主犯格の男も背が低くて痩せた日本人ごとき余裕だと思って試合に挑んだんでしょうけど、相手の方が一枚上手だったわけですね。というか人が一生懸命つくってる作品に悪戯しないようにしたほうがよかったのでしょうね。

 

光太郎の愛妻家としてのエピソードに、智恵子の亡くなられた後、彼は彼女の髪の毛一房をいつも大事に懐に忍ばせていた、というものがあります。妻が亡くなってもその面影に縋りたかったのでしょうか、それともずっと一緒だと思っていたかったんでしょうか。何にせよ、彼は智恵子と知り合って以降、ずっと彼女のことを想い、また彼女も光太郎のことをずっと愛していたことはきっと事実なのでしょう。

 

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yasu718

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