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小泉八雲という人柄を裏側から見てみよう

2020-07-08

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小泉八雲という作家はご存知でしょうか?

 

一般に知られているエピソード以外のエピソードをご紹介するとともに

 

小泉八雲の人間像を楽しんでもらえたらうれしいです。

 

 

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画像出典:wikipedia

 

 

 

日本の妖怪に代表される怪談話で有名なパトリック・ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲は、1850年当時イギリスの保護領だったギリシャのレフガタ島で産まれ、このレフガタ島からラフガディオというミドルネームが生まれました。

その後、6歳までの間に両親の離婚と父の再婚を経験し、アシュウ・ガレッジに入学しました。

 

入学後の寄宿学校で遊んでいたとき、ブランコのロープの結び目が左目に当たり怪我をし、隻眼となりました。以降は左右の目の色が異なって見えるようになってしまったので、写真に写るときは左を向くようになりました。以後1890年に日本に来日するまで、八雲は当時違法だった黒人女性との結婚と離婚、結婚を理由に就職した会社を退社することになったり、食堂「不景気屋」の経営に失敗したり様々なことを経験し、1890年4月4日に日本の横浜港に着きます。

 

小泉八雲は1891年に松江市の士族の娘・小泉セツと結婚します。彼女が日本語が分からない八雲に日本の民話や伝説を語り聞かせた張本人で、彼女がいなければ小泉八雲の作品はこの世に生まれていなかったかもしれません。

 

 

来日後の小泉八雲は日本で英語教師として教鞭を振るうようになり、松江・熊本・神戸・東京と住居を変えながら日本の英語教育が最先端の領域に達するよう尽力しました。加えて欧米に日本文化を紹介する内容の作品を数多く遺しています。後の1896年、彼は日本国籍を取得し「小泉八雲」と名乗るようになりました。同年には東京帝国大学文科大学の英文学講師に就任しました。1904年八雲が54歳のときに狭心症でこの世を去るまでの間に三男一女を儲けています。

 

小泉八雲ゆかりの地でもある、記念公園です。

 

 

小泉八雲が遺した作品で一番有名なものはやはり『怪談』でしょう。「耳なし芳一のはなし」「雪女」「ろくろ首」に代表される、怖いけれど何処か切なく美しい古き良き日本の怪談話が綴られており、現代においても人気です。

 

私も誰に教えられたわけでもないのにこの三本の話のあらすじが大体話せる程身近にある文学作品です。特に雪女は悲しいお話ですよね。主人公からしてみれば綺麗な女性が自分の父親を目の前で寒さでお亡くなりになることをさせた怪異の張本人であるという衝撃と驚き、雪女からすれば好きになって子供まで儲けた伴侶が自分のしたことを語ってしまったことから正体を現し、去らなければならなくなった悲しさです。私の推測ですが、雪女は子どもを授かったことにより初めて母性というものを知ったことから伴侶となった男性を心から愛せるようになったんじゃないでしょうか。幸せ絶頂期に自分の黒歴史を語られ、当時の自分と交わした約束通りに去らなければならなくなった。自業自得とはいえど、子供のことを想うと後ろ髪引かれる思いだったことでしょう。そんな名作を日本に数多く遺した八雲の妻・セツ。彼女は生まれてすぐ遠縁の稲垣家の養女になります。

 

子供がいなかった養父・養母と養祖父母にいたく可愛がられて育ち、いつも大人に古い話や不思議な話をしてくれとせがむような物語好きな少女に成長します。これは後に八雲が怪談を執筆する影響を受けるいったんかもしれません。セツはその後色々な苦労をしながらも懸命に生き抜き、小泉八雲と結婚しました。4人の子宝に恵まれた二人はお互いのことを「パパさん」「ママさん」と呼び合う、とても仲の良い夫婦だったそうです。

 

八雲の旧宅となります。静かな佇まいが素敵ですね。

 

小泉八雲は最初から日本語が上手かったわけでもなく、またセツの方も英語が出来たわけではありませんでした。八雲がセツに英語を教え、その英語の読みをセツが丁寧にカタカナで書留めそれに日本語訳を書き添えた二人の練習帳が松江市にある小泉八雲記念館に保存されています。しかしこの作業、八雲とセツの双方ともに根気が要ったでしょう。英語よりも日本語の方が遥かに語彙は多いでしょう。

 

五月雨・狐の嫁入りとも謂われる夕立といった日本独自の表現が全国津々浦々もうべらぼうに残されているわけです。それを訳すのも書くのも大変ですし、八雲が教える英語も動詞とか接続語やら助動詞やら現在完了形といった単語のつなぎ方で意味が変わり、イントネーションも異なってくる厄介なものです。また、八雲の両親はダブリンに移り住みますが夫が仕事でいない上慣れない国での生活に、八雲の母・ローザは神経衰弱に陥る程苦しみ、八雲を父方の大叔母に託して単身故郷のレフカダ島に帰ります。

 

この頃の小泉八雲は食事中にテーブルの下に隠れ悪さをする悪戯好きでした。両親が傍にいない複雑な家庭環境から生まれた寂しさの表れから悪戯をしていたでしょうか。一方の父親はというとローザに離婚を叩き付けた上に好きだったかつての恋人と仲良くするのです。

 

この父親から八雲がに優しくされた記憶は殆ど無いらしく、終生非常に毛嫌いしています。というか離婚する前に八雲の教育とか母親のことを気遣ったり自分が転勤しなくて済むように配慮するとかいう優しさは皆無なのか、というか恋人と結婚とかじゃあ最初からその可愛い可愛い恋人と結婚、という話ですよね。確かにローザとでなければ八雲は生まれてなかったですけど複雑ですね。

 

小泉八雲は父親嫌いの一方で非常に母親想いの子供でした。何処に住んでいようが自分を産み育ててくれたお母さんですから、当然といっちゃあそうかもしれません。八雲は日本の食文化もこよなく愛していました。特に卵を使った日本食が好きだったようで、朝食は牛乳二合と生卵五個でした。一日六個の卵を食べたこともあったそうです。

 

当時は今より卵は身近に安価なものではなかったと思われますので、さすがに六個も食べるとセキにこっぴどく叱られたのではないでしょうか。卵焼きにゆで卵や目玉焼きといった卵料理が美味しいのはよく分かりますが、何事も適量に摂取することが大事ですからね、食べ過ぎは良くないです。私も朝昼卵料理食べることはざらなので人のことは言えませんけどね。

 

八雲のお墓です。

 

先程八雲の作品・雪女を紹介しましたが、彼の作品には実の父母に対する想いが感じ取れる作品が多数あります。「水飴を買う女」は京都の現在でも実在している飴屋が舞台です。亡くなった母親に対する恐怖とそれでも我が子の為に水飴を買い与え続けた彼女の優しさに加え、でも母親は亡くなっているという事実への悲しさが漂っている作品ですよね。これも現代まで語り継がれています。

 

小泉八雲はこの話の最後を「(母親の)愛は、お亡くなりになることよりも強かったのである(love being stronger than death)」という言葉で締め括っているのですが、4年間しか共に過ごせなかったけれど母・ローザはきっと自分を愛してくれていただろうという母の愛を信じる気持ちとそれに縋りたいという気持ちがこの一文から見えるような気がします。母への気持ちが「愛」ならば父へは「不信感」でしょうか。

 

さて、この赤子が発した言葉は八雲の「どうして自分を捨てたのか」という父に対する不信感と疑問でもあるでしょう。また、男が僧になるという結末は過去に過ちの重さを理解してほしいという彼の想いの表れかもしれません。現に実父は母を放っておいて勝手に女と再婚した挙句自分のことも放っていますからね、こんな風に思われて無理もない、寧ろ当然のことでしょう。孤独な家庭環境で育った八雲ですが、来日後は初めて愛する人と子に恵まれ、また「ヘルン先生」と多数の人達から慕われ、愛される存在となります。八雲の作品は、そのような彼の人生を知りつつ読むとより一層魅力溢れる作品に様変わりすることでしょう。

 

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  • この記事を書いた人

yasu718

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