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北原白秋を知るための秘話や物語

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お詩人としても有名な北原白秋。 そんな北原白秋の人間像を探るべく

さまざまな逸話をご紹介しながら深く見てみましょう。

 

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画像出典:wikipedia

 

北原白秋は詩・童謡・短歌や新民謡の分野でも活躍し、当時「国民的詩人」ともいわれていました。1885年(明治18年)に熊本県に生まれ、程なくして福岡の商売を営む商家である実家で暮らします。

 

中学卒業後は今の福岡県立伝習館高等学校に進みましたが、2年後には成績不振のために落第してしまいます。また、この頃から詩歌に魅了され『文庫』『明星』等を読み進めていきます。2年後には火事により家が全焼し家産が傾き始めますが白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載します。『文庫』4月号に河井醉茗の長詩『林下の黙想』が掲載されるとこの詩に感激した白秋は父親に無断で中学を退学、そして早稲田大学英文科予科に入学します。

 

入学後の1905年(明治38年)には『全都覚醒賦』が「早稲田学報」懸賞一等に入選し、期待の新進詩人として注目を集めます。1906年、白秋は新詩社に参加し、与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合います。同年に『明星』で発表した詩は多数の人から称賛され、文壇の交流が広がります。1909年には処女詩集『邪宗門』が発売されると官能的、唯美的な象徴詩作品が話題となりますが、年末には実家が破産し白秋は一時帰郷を余儀なくされました。

 

北原白秋記念館の様子です。 いろんな展示物があり、ファンにはたまらないですね。

 

その後の詩歌では1918年に日本の児童文化活動の父と言われている鈴木三重吉の勧めで『赤い鳥』の童謡、児童詩欄を担当し以降は優れた童謡作品を次々と発表し、再び脚光を浴びるようになります。晩年には現今上天皇の誕生の際には奉祝歌『皇太子さまお生まれなつた』(作曲:中山晋平)を寄せ、政府からの呼び寄せで台湾旅行もしています。そして1942年、阿佐ヶ谷の自宅で57歳で逝去しました。

 

白秋は詩で活躍後童謡でも成功しますが、彼が発表した中には「雨降り」というぴっちぴっちちゃぷちゃっぷらんらんらん、というあの独特な可愛らしいフレーズで有名な歌も作詞しています。北原白秋・童謡と検索すると結構有名な歌が出てくると思われるので、これも白秋だったのか!?と吃驚するかもしれませんね。また色々な学校の校歌の作詞も手掛けていて数を数えるのが億劫になるほどです。弟たちが生活を支えていた程貧乏の筈なのにどうしてお金のかかる芸者を沢山呼べるんだと彼らが怒り、その怒りの矛先の一端が章子に向いたのです。弟たちの怒りはもっともです、金があるなら援助していた分返せってなりますし、章子にもそれを知っていたお前も一緒なのかと疑いたくなりますよね。

 

白秋の生家です。

 

しかし章子の気持ちも自分の着る着物も売ってまで家庭のことを考えていたのに怒られるし、何故こんな理不尽な目に遭うのかと怒るのも十分分かります。一番解せないのは白秋です、弟たちと章子に援助してもらったのにさほど感謝もなく芸者を呼んで遊ぼうとして更には怒って妻が夜に出て行ったことを疑問に感じて離婚するのです、そこで自分を支えてきた章子に悪かったと思って弟たちに弁解したり釈明したり離婚も再婚もせずにきちんと謝罪して章子をずっと待っていようとか思えばよかったですね。

 

加えて白秋は自信家でもあったそうで、手紙や声明からは尊大さがあちこちから滲み出ている程だそうです。自信家だったからそのプライドが邪魔して章子や弟たちへ謝罪とか感謝の言葉とか言わなかったんでしょうか。いや、自信家で如何ほどプライドが高くてもありがとうとごめんくらいは言えるでしょう、どうしてそれが出来ないのか。

 

離婚した後3番目の妻として佐藤菊子と生活を共にし、離婚することなく晩年を過ごせたようです。因みに、この白秋の癖の悪さの一端は石川啄木にあります。交流のあった白秋に啄木は遊びを教えてしまったのです。そう考えると啄木は罪な男ですが、白秋は白秋で彼なりにきっと啄木にお金を貸したりして苦労していそうですね。

 

林檎も好きで詩によくテーマとして登場したり、亡くなる前の最後に食べたものも林檎でした。食も細くなり何も口にできなくなっていく中で好物の林檎を最後に口にできたことは彼にとってはある種の最後の幸せだったかもしれません。白秋は異文化交流が盛んだった九州で生まれ育った影響でキリシタン文化も知っていて、カステラを好んで食べていたそうです。「桐の花とカステラ」というエッセイを執筆したり「思ひ出」という詩集に「カステラ」という題名で詩を載せたりしています。彼にとってのカステラは生まれ育った故郷を代表する思い入れ深いお菓子だったのでしょうね。

 

白秋のお墓です。

 

白秋の実家は名家です。ですが寧ろ生まれたのがそんな家系だったからこそ逆に疎んじていた節もあります。16歳の頃に実家が火事で全焼し、これを機に元々文学嫌いであった彼の父は後継ぎとして本腰を入れてくれと頼みますが、当の白秋は余程嫌だったのか相続問題等諸々を放棄して東京に上京しました。晩年の白秋は眼底出血で視力の殆どを失うものの、作品の整理を仕分けたり亡くなる直前には全国の民謡・童謡の研究を手掛ける構想も練っていましたが実現できませんでした。しかし、彼の遺伝子を受け継いだ木俣修や藪田義雄ら弟子により引き継がれ、見事に実現されました。

 

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yasu718

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