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志賀直哉の一生から見えるさまざまな素顔とは

2020-07-08

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有名な作家でもある志賀直哉の知られざる素顔が分かりやすいと言われている?

 

このブログでは有名作家の知られざるエピソードをご紹介することで

作家さんの人間像を理解していただけましたらと思います。

 

さて、次にご紹介するのは「志賀直哉」です。

 

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画像出典:wikipedia

 

 

白樺派のリーダー的存在だった作家・志賀直哉は明治16年(1883年)に宮城県牡鹿郡石巻町の士族出の有名実業家の家庭の次男として生まれました。その後、祖父母に激愛されて育った直哉が初等部を卒業した頃、実母を亡くし、その体験を「母のお亡くなりになられたと新しい母」という作品の中で綴っています。

 

学習院中等部に入学する頃彼の夢は海軍軍人や実業家でしたが、この頃「倹游会」を結成し『倹游会雑誌』を発行、直哉は紙面に和歌を発表し、これが初めての文筆活動でした。中等部時代の直哉は正直に言うと素行が悪い方の生徒だったようで、3年・6年の時に二回落第しました。要因は授業中にも関わらず素行の悪い立ち振る舞いを行うこと、また教室内での落ち着きの無さといった品行点の悪さのようです。

 

しかしそのお蔭か、後の盟友になる二歳年下の武者小路実篤と二回目の六年生の時に同級生となるといった収穫もあったそうです。ですがそんな素行の悪い生徒、他の生徒も嫌がってあまり人が寄り付かないと思います。お坊ちゃまお嬢様学校なら尚の事煙たがられたのではと推測します。

 

 

志賀直哉が作家を志したのは、高等科の頃に女性が義太夫語りをする「女流義太夫」に熱中していたことが基となっています。当時の女義太夫・昇之助の公演を見て感動し、「昇之助のように自分のする何かのことで人を感動させたい」と思ったのです。それと同じ頃にハマっていたアンデルセン童話に影響を受け「菜の花と小娘」という作品を執筆し、「別の意味で初期作」という言葉を残しています。

 

実は志賀直哉の作品の核となっているのは、父・直温との衝突と不和です。足尾銅山の件という多数の被害者を出した明治最大の公害が不和の引き金となりました。この一件を知り、義憤を燃え上がらせた直哉は、祖父がかつて足尾銅山を共同経営していたという理由から鉱山側を全面的に支持する父・直温と激しく対立し、これが長い不和の直接的な発端となったのです。

 

志賀直哉の旧宅です。

 

 

この足尾銅山の一件については1980年代まで稼働し続けた精錬所と2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるといったことが起こり、現代でも問題となっているのです。そのような一件と原因の鉱山を支持する父への批判と一種の絶望が直哉を襲ったのでしょう。

 

志賀直哉にとっては罪のない人々が公害の犠牲になる痛ましい一件であり、加えて鉱山に祖父と父が関係していたのですから、自責の念で胸が一杯だったことでしょう。そこに更に父は自分の意見に耳を貸さずに鉱山側を支持する姿勢を貫いていたのです、そりゃあ衝突して当たり前ですよね。犠牲者を少しは悼んで謝罪であったり反省する態度を直哉は見たかったのでしょうか、それとも自分の意見と父の意見を打ち明け、対立でなく議論がしたかったのでしょうか。この不和を悪化する事態が志賀家で起きました。

 

東京帝大に在学中の直哉は志賀家の女中と仲良くなります。ですが実業家の父はそれを許さず、強く反対しました。加えて『白樺』の版元から直哉初の短編集出版の話が進んでおり、出版費用を父が負担することが約束されました。しかし父にその費用を貰いに行ったとき、「小説なんて書いてどうするつもりだ」「小説家なんてどんな者になるんだ」と小説家を志望する志賀直哉の将来を否定するかのような発言に言い争いになりました。その結果不和は悪化し直哉は10月25日に家を飛び出しました。

 

その後、1916年に和解するまでの間直哉が女性と独立したのですがそれを父に反対され自ら父の家から離籍しています。しかし、父親の小説家への否定的な言葉も分からなくはありません。売れればいいですが売れなかったら生活はどうするのかといった作家としての将来への不安や息子に実業家としての志賀家を継いで欲しいという期待とそれを裏切られた悲しさも否定的な態度の表れではないかと私は考えます。

 

実業家で成功している志賀家、このまま経営権を直哉に譲れば双方の将来は安泰するのです。それを放ぽって違う道に進むのですから、父親の方もそれ相応に疑問もあるでしょう。ですが、直哉の方にも父には自分を理解してほしいという気持ちがあったからこそ、わざわざ仲が悪いのに出版費用を求めに行ったのではないかと私は思うのです。

 

また、志賀直哉は人生で23回も引っ越しをしており、引っ越し先の風景や出来事を小説の中に散りばめています。直哉の代表作にして唯一の長編小説「暗夜行路」や「城の崎にて」も療養先の城崎での体験を基にしています。直哉の作品は短編が主ですが、彼の名を一躍世に知らしめたのが「小僧の神様」で、後に「小説の神様」と直哉を多くの文豪から称されることになった作品です。代表作には何かしら直哉自身の体験談から得た部分が書かれているので、何処の部分が直哉が体験したのかを探すのもしれませんね。

 

直哉はスポーツも得意とし、中でも当時では高級で珍しい自転車にいつも乗っているほど熱中していました。直哉の自転車好きは以降も続くのですが、彼が30歳の頃に自転車で東京芝浦海岸の納涼祭で行われる素人相撲を里見弴と見た帰りに夜道を歩いていると、山手線の電車に跳ねられてしまいました。

 

志賀直哉ゆかりの地といえば、スコット旧館です。

 

昭和20年代程までは線路内を歩行する人が結構いたそうなので、酔っ払いながら歩いていたのかもしれませんが、問題はその後に起きます。直哉はその事故で頭部の骨が見えるほどの酷い怪我を負い、病院に担ぎ込まれたにも関わらず、驚異的な回復でなんと12日間の入院だけで済んでいるのです。

 

更には10月14日にはその怪我の療養に城崎に向かう途中の大阪で下車して不眠不休で丸3日の間里見弴と遊びまくったそうです。本当に療養が必要だったんでしょうか、というか12日間で頭部の傷がふさがって動ける状態になるんでしょうか、化物級の回復力ですね。私が里見なら12日間で退院ときいたら驚きますね、しかも大阪で3日間遊ぶなんて。付き合う里見のことも考えてやれよってことですよね。誰しもが志賀直哉みたいに体力お化け並みじゃないんですから。

 

しかも城崎では1日10枚も原稿を書いたというハイスピード。「城の崎にて」はここでの体験から生まれたそうですが、ここに至るまでの人並み外れたエピソードを聞いてからだとちょっと読むスピードがゆっくりになるんじゃないでしょうかね、それか逆に興味を惹かれて読み漁るかのどちらかではないでしょうか。

 

 

また、当時としては珍しく直哉自身料理上手で台所に立つことも少なくなかったようです。豆腐嫌いで和食より洋食好きというところもお坊ちゃん育ち感を倍増させています。きっと食材もこだわって高くて良い物しか使用しなかったのでは、というかそうしないと舌が許さなかったのではないですかね。

 

大の動物好きでも直哉は有名です。犬好きなことは知れ渡っていますが、狸、羊、猿、兎、山羊、スッポン、亀、文鳥、目白、アヒル、七面鳥、尾長鶏、鳩、カラス、熊の子、猫、スズメ、フクロウといった様々な種類の動物を飼っていたそうです。筋金入りの犬好きだったそうで、骨董品を買いに行っても犬に化けたり三越デパートでマルティス・テリアを衝動買いしたこともあったそうです。お金持ちだからこそポンポンポンポン犬を先頭とした動物を沢山買えるのでしょうね、鳥類はまだしも狸とか熊の子まで飼うとは、野生動物でも飼ってよかった昔だから出来ることですね。

 

志賀直哉のお墓です。

 

直哉自身は神棚も仏壇も置かず、赤城山にいた頃の散歩中に道端にあった石地蔵を蹴り倒したことがありました。その後に子供が二人お亡くなり自身も坐骨神経痛で悩んでいたことを心配した妻が石地蔵を起こして供養してもらおうとしましたが、直哉はそれを家の中にずるずるべったりとした嫌なものが家の中に入り込むから嫌だと拒否しました。

 

素行の悪さが目立った学生時代からですけど、ちょいちょい素行の悪さが目立つ所がありますよね、この人。きっと奥さんも直哉のこういう所にはさぞかし苦労されたことでしょう。志賀直哉は1971年に肺炎と老衰によりお亡くなりました。葬儀・告別式は本人の希望通りに執り行われました。遺骨が納められた骨壺は青山霊園に葬られましたが1980年に無くなり、その後行方不明だという事実がわかりました。彼の人生はまさしく波乱万丈という言葉が似合いますが、それは没後も続いているようで、休まらないと考えると彼が可哀想な気がしますね。

 

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  • この記事を書いた人

yasu718

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