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小林多喜二という人間像を深堀してみる

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小林多喜二をご存知でしょうか? 有名な作家でもあります。

そんな小林多喜二のあまり知られていないエピソードをご紹介するとともに

彼の人間像に迫ってみたいと思います。

 

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画像出典:wikipedia

 

 

プロレタリア文学の代表格として有名な作家・小林多喜二は明治36年(1903年)の秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)に農家の次男として産まれました。家庭は決して裕福とはいえませんでしたが、伯父の経営する工場に住み込みで働く代わりに小樽商業学校から小樽高等商業学校へ進学しました。

 

在学中から絵画や文芸雑誌への投稿や、自らの作品を発表するなど、文学活動に精力的に取り組んでいました。その後、多喜二は家庭を取り巻く緊迫した状況や当時の深い不況から来る社会不安などの影響から労働運動への参加を始めました。幼少期から多喜二の身近にあった労働者が酷使される姿は、後のプロレタリア文学の道に進むこととなった影響のひとつかもしれません。

 

後の1924年に学校を卒業した多喜二は銀行の小樽店に勤務し、5歳年下の恋人・タキに出会います。彼女は父親の多額な借金の所為で13歳から飲み屋で働かされており、多喜二はその借金を友人から借りた金で返済し、彼女を家族という形で実家で身請けしました。多喜二の家族もタキを暖かく迎え入れましたが、多喜二との身分差に悩み7か月後に家出をしています。多喜二は銀行で働いている立派な社員ですが、タキは正真正銘の恋人とはいえ飲み屋で働いてきたのですが家出に至ったのかもしれません。

 

小林多喜二生誕の地碑です。

 

多喜二はその後北海道から立候補した選挙運動の手伝いをし、これが作品『東倶知安行』執筆に役立つ経験となりました。同年3月15日に通称三・一五を題材に『一九二八年三月十五日』を雑誌・『戦旗』に発表しました。

 

翌年1929年に代表作の『蟹工船』を『戦旗』に発表するとプロレタリア文学の旗手として有名になり注目を集め、7月には『北緯五十度以北』という題で新築地劇団による劇が帝国劇場で上演されました。一躍有名になると同時に要注意人物としてマークされ始めました。また、発表した作品をもとに勤めていた銀行も解雇されてしまいます。

 

この当時、世間一般に警察といった国家権力に反対する者はごく少なく、また反抗すること自体が罪という意識もありました。しかし、それに反抗した組織が現在の日本共産党です。多喜二が勤めていた銀行も、彼が共産党支持者だと知り自分たちも国家権力に罰せられると恐怖で恐れ慄いて彼を解雇するに至ったのだと想像できます。

 

 

そんな存在だった日本共産党を目の敵にしていた警察が同じく共産党を支持し、プロレタリア文学で庶民にも有名になった多喜二を見逃す訳がなかったのです。警察にとっては所謂格好の獲物といってもいい程の存在だったでしょう。後の1933年2月20日、共産党に潜入していた特高警察のスパイ・三船留吉の策に嵌り待ち合わせ場所で特高警察に待ち伏せられ逃走しましたが、捕らえられました。

 

当時は関東大震災や世界恐慌による経済不況・農村恐慌が相次いで起こり社会不安が増し、その中で国家に対する不安・不満も出ていたでしょう。しかし、息子が何処の組織でどう活動していようが多喜二はセキにとって最愛の息子です。そんな息子が変わり果てた姿で戻って来たのですから、彼女の悔しさや社会・警察への怒りや憎しみは想像を絶するものだったでしょう。加えてセキはみんなの為にもう一度立てと叫んでいます。多喜二がプロレタリアと共産党のリーダー的存在でありどんな影響力があったかを知っているうえでの発言でしょう。

 

若くしてこの世を去った多喜二ですが、彼は明るく社交的な性格で、とても話し好きでした。また、母親想いで原稿料も母に送り、亡くなる間際にも「母にだけは知らせてくれ」と懇願したそうです。

 

また、彼の好物はおはぎでした。特に母・セキ手作りのおはぎが一等好きだったようです。そんな可愛らしい一面があるなんて、おはぎ大量につくって食べさせたいですね。彼を取り巻いていた状況からか、私的に何故か多喜二はいつも空腹で満足に安心してご飯を食べられなかった感じがします。養ってあげたい感覚ですね。

 

加えて昭和2年の日本文学全集の宣伝講演で小樽に来た里見敦と芥川龍之介をもてなす為に多喜二が彼等の歓迎会を仕切ったとき、友人と共に好きな食べ物の話になりました。他の皆がお洒落な洋食料理をあげる中、多喜二だけ「炊き立てのご飯に塩鮭を細かく振りかけたものが最高に美味い」と言い、皆にクスクスと笑われた友人は赤面しましたが、当の多喜二は何故笑われているのか分かっていなかったそうです。

 

当時から多喜二は周りから「大きな子供」のような魅力を持っており、この一件も「凄く才能があるのにこの状況下で‘白米に塩鮭’と言う彼の素朴さとある意味での空気の読めなさ、それを笑われる感覚が通じないいい意味で世間に慣れていない感覚」を多喜二が持っていて、且つ周りに影響を与える存在だと感じるエピソードでした。しかし白米に塩鮭なんて…、益々欠食児童感が増していきます。白飯五合と塩鮭10切れくらい食べさせてあげたくなるくらい尊くて可愛らしいですね。

 

小林多喜二文学碑です。

 

多喜二は石川啄木の詩を好んで読み、志賀直哉の作品で文学を学び、二人のファンになっていました。特に高校時代から直哉宛に「いずれ北海道で育った自分が日本文学を席捲するでしょう」という内容の手紙を度々送り、名前を覚えられていました。どこでも直哉宛の手紙を送っていたようです。

 

しかし直哉はプロレタリア文学は好きではなかったので、多喜二から意見を聞かせて欲しいと送られた蟹工船と手紙に対し、プロレタリア運動意識が作品として不純になると返信しています。その五か月後、多喜二は奈良にあった志賀邸を訪れます。多喜二は自分の意見を押し付けず終始大人しい様子で昔の手紙の話題になると赤面していたそうです。その日は直哉の息子と3人であやめ池にある遊園地で遊び、一泊し帰っていきました。

 

 

多喜二は国家権力に反発していた共産党員で、亡くなられた後の式であっても参列、ましてや弔文を贈るということは警察から要注意人物としてマークされるかもしれないとても危険な行為です。それをした直哉にとって多喜二は自分の大事なファンであり、弟子と言っても過言でない存在で、そんな大事な彼が亡くなった悲しみから弔文を贈る危険な行為をしたのではないでしょうか。

 

直哉のこの行為も多喜二がどれ程の人に愛され、また彼の亡くなることが多数の人間に影響と衝撃を与えたことを物語っています。多喜二は直哉に手紙は何十通も送っていましたが直接会えたのは一度きりです。多喜二も直哉もお互いにもっと会って色々な話がしたかったと思っているでしょう。私としてももっと会って色々語り合ったことを現代で知りたかった。というか多喜二にこの世での楽しい想い出をひとつでも多くつくって欲しかったという母親気取りの思いが胸に込み上げてきます。

 

多喜二は直哉の子供にとても好かれたそうですし、家族ぐるみの関係になっていったかもしれないのに、悲しい結末で彼の人生は終わってしまいましたが、一度だけでも憧れの人に会えたことが唯一の救いでしょう。

 

多喜二の代表作の『蟹工船』は蟹工船労働者たちの悲惨な労働条件と、彼等が組織的な闘争に立ち上がっていく姿を描いた作品ですが、現代でも人気が上がっています。その裏には当時と同じような過酷な労働環境や不景気が蔓延している社会、所謂ブラック企業の存在が本と合わさり共感を呼んでいます。やはり昔でも現代でも労働者を取り巻く環境は組織の大元を正さない限り良くならず、犠牲になるのは下にいる労働者・庶民たちです。

 

このような状態が続く限り環境は変わりませんが、弱者も皆で協力することで強者と闘い、打ち勝つことも出来るという希望を謳っている作品でもあると私は思っているので、そのような部分が現代に通じ多くの読者・ファンを生み、今現在も慕われているのではないでしょうか。

 

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yasu718

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